Miscellaneous Notes

シグマの昔ばなし

またまた昔のことを思い出しました。

読売新聞連載の「時代の証言者」パリダカの勇士 篠塚健次郎氏の連載(令和2年7月1日より8月15日まで32回の連載)を見て、同じ世代の青春時代を思い出しました。

これから不定期で当時、小生(五十嵐 雄次)自身のモータースポーツ等の昔ばなしについて書いてみたいと思います。今を思えばシグマのルーツはこの辺りの出会いから始まります。

第1回 篠塚氏との出会い。

そもそも篠塚氏と初めてお会いしたのは多分、昭和41年頃 と記憶しております。小生のサラリーマン時代は、千代田菱和オートという三菱の販売会社(当時はまだ三菱の名前はついておりませんでした)にて部品を担当しておりました。

当時の上司 部品部長の高橋修二郎氏のところへ、まだ当時東海大生であった篠塚氏が来社された時に部長室に来るように言われました。そもそも高橋氏は新東亜交易(当時の三菱商事の分離会社)時代に三菱自動車が初めて海外レース(マカオグランプリ)に参入した時の責任者でした。

その頃の小生は日常業務の傍らCMSC(Chiyoda Motor Sport Club)という社内チームを結成し高橋氏の下で、Colt1000をフロアシフト仕様に改造等、サーキット走行に対応できるように部品製作兼テストドライバーもやっておりました。

当時の三菱500スーパーデラックス(A11型)、Colt1000(A20)を改造し、当時の船橋サーキットや富士スピードウエイに走りに行っておりました。しかしながら当時の三菱エンジンMHI製KE4~6シリーズはOHVタイプであり高速サーキット走行には対応できるエンジンではありませんでした。しばらくするとColt 11FSS(KE46 SUツインキャブ搭載車)がリリースされ、CMSCも車両性能に対応したラリー競技に移行して行きました。その頃だったと思います。篠塚氏が高橋氏を訪問され、小生を篠塚氏に紹介してくれました。

話の内容については記憶がありませんが、当時、各大学自動車部主催のラリーが盛んになりつつある頃でしたので、マカオの話から始まりラリー競技の話をしたのではないでしょうか。勿論、ランサーもランタボも登場前ですので、プライベーターとしては苦戦の連続でした。三菱が販促活動の一環としてラリー活動支援のスタートを切ったのはこの頃ではないかと推察します。社内クラブもラリー競技に転向し当時、最新の三菱車COLT11Fスーパースポーツをラリー仕様に改造を施し国内競技にて入賞、優勝するようになりました。

富士スピードウエイにて 三菱A11型及びCOLT1000 A20型のテスト走行時のスナップ
当時のA20改造車(車高ダウン他サーキット対応に改造)画像左が小生
秩父山中の林道にて
千代田菱和オートから千代田三菱自動車販売に名称変更の記念に1枚。
当時、部品担当の制服はなぜか白衣でした。コンピューターのないこの時代、各車のパーツカタログを丸記憶していたのが自慢です!